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【書評】夜と霧~絶望を感じる人に刺さる多くの名言を紹介~★

人生に絶望を感じている

つらい毎日が続き、希望が持てない

今回はそんな方にぴったりの「夜と霧」を紹介します。

夜と霧は、約2年にわたるナチスの強制収容所経験に基づいた体験や洞察について書かれた本です。1946年に出版されました。

私も社会人になった時にこの本を読んで衝撃を受け、今でも定期的に読み返しています。

この本では、強制収容所内での人々の生活やその時の心理状態などについて書かれてあり、過酷な環境を生き抜いた著者が記した不安や恐怖・人生の意味について多くの示唆が含まれている本です。

読売新聞が2000年に実施した「読者の選ぶ21世紀に伝えるあの一冊」のアンケート調査において世界の名著部門第3位に選ばれた名作です。

そんな「夜と霧」について、私が心に留めている名言を紹介します。

目次

著者について

著者はオーストリアの精神科医ヴィクトール・E・フランクルさんです。

経歴

1905年、ウィーンに生まれる。ウィーン大学卒業後、在学中よりアドラー、フロイトに師事し、精神医学を学ぶ。第二次世界大戦中、ナチスにより強制収容所に送られた体験を、戦後まもなく「夜と霧」に記す。1955年からウィーン大学教授。

もとは医師・心理学者として活躍されていましたが、戦争がはじまりナチスに強制収容所に連行されてしまいます。

著者は、約2年にわたって絶望的な強制収容所生活を過ごします。周囲の人が次々と死んでいく中、奇跡的に最後まで生き延びます。

本書にも多くの記載がありますが、生き延びたのは偶然の要素も大きく、少しでも他の要素が加われば、著者も生きて帰れなかった可能性が高かったそうです。それだけ強制収容所での生活が極限の状況でした。

収容所での生活と精神状態

収容所生活について

現代の生活とは比較にならないほど劣悪な環境で労働を行い、生き延びるために容赦なく抗争がおこっていたようです。自分の身を守るために、他の人を気にする余裕が全くなかった状況が文章からもひしひしと伝わります。

収容所暮らしが何年も続き、あちこちたらい回しにされたあげく1ダースもの収容所で過ごしてきた被収容者たちはおおむね、生存競争のなかで良心を失い、暴力も仲間から物を盗むことも平気になってしまっていた。そういう者だけが命をつなぐことができたのだ。何千もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、とにかく生きて帰ったわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と。

収容所生活における精神の変化

「特定のことに直面しても分別を失わない者は、そもそも失うべき分別をもっていないのだ」

異常な状況では異常な反応を示すのが正常なのだ。精神医学者の立場からも、人間は正常であるほど、たとえば精神病院に入れられるといった異常な状況に置かれると異常な反応を示すことは、充分に予測できる。

強制収容所の被収容者の反応も、異常な精神状態を示しているが、それ自体は正常な反応であって、このような状況との関連において見るかぎり、典型的な感情の反応なのだ。

数週間前に先に強制収容所に到着した知り合いから収容所生活を生き延びるコツについて聞き、その際に「心配があるとすれば君だ」と言われて著者がほほえんだシーンです。

強制収容所へ入ってすぐに収容ショックといわれる第一段階の心理状況から感情がだんだんとなくなり何も感じなくなる第二段階に心理状態が変わっていきます。

毎日殴られたり、人が死んでいく中、それらをシャットダウンするために感情がなくなっていき、内面がじわじわと消滅していくことが本文からも読み取れます。

感情の消滅は、精神にとって必要不可欠な自己保存メカニズムだった。現実はすっかり遮断された。すべての努力、そしてそれにともなうすべての感情生活は、たったひとつの課題に集中した。つまり、ただひたすら生命を、自分の生命を、そして仲間の生命を維持することに。

ほとんどの被収容者は、風前の灯火のような命を長らえさせるという一点に神経を集中せざるをえなかった。原始的な本能は、この至上の関心事に役立たないすべてのことをどうでもよくしてしまった。

強制収容所での過酷な肉体労働や栄養不足、日々の虐待・暴力のなかで、感情が消滅してしまい、生き延びることのみを意識して過ごさないといけない状況だったようです。

「夜と霧」名言の紹介

夜と霧では、生きることに関して多くの名言が出てきます。私がこれからも胸に刻みたいと思った名言を紹介していきます。

「生きること」への問いに行動で返していく

ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。

生きることは日々、そして時々刻々問いかけてくる。わたしたちは、その問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

過酷な強制収容所での生活で生きる意味を見失った人も多かったようです。乗り越えるには、人生に期待する生き方から考え方を変える必要があります。

生きることは人生からの「どうするのか?」という問いかけに対して、具体的な行動を全力で返していかないといけません。

この考え方は私自身も日々の生活をするうえでも大切にしたいと思います。

苦しみも含めて意味があると考える

具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。

人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある、この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬことを、苦と死をもふくむのだ

およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。

人間はどこにいても、運命と対峙させられ、ただもう苦しいという状況から精神的になにをなしとげるかどうか、という決断を迫られるのだ。

本書では「苦しみ」に関する記載が多くあります。

現代での生活と強制収容所での生活は、レベルが全く異なり比較できることではありませんが、しんどい時は苦しむことも含めて「生きること」に取り組む必要があります。

どれも本当に苦しみを味わった方でないとでてこない言葉であり、一つひとつの言葉が本当に重く感じます。仕事がしんどいと文句をいっていた自分とは次元が全く異なります・・・

こうした考えは、生きて帰れる見込みがない被収容者を、絶望から踏みとどませる唯一の考えだったようです。

生きる目的を持ち続ける

強制収容所の人間を精神的に奮い立たせるには、まず未来に目的をもたせなければならなかった。

~中略~ 

「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」

したがって被収容者には、彼らがいきる「なぜ」を、生きる目的を、ことあるごとに意識させ、現在のありようの悲惨な「どのように」に、つまり収容所生活のおぞましさに精神的に耐え、抵抗できるようにしてやらねばならない。

未来に関する希望について触れている上記の箇所が、私が本書で一番好きなフレーズです。

収容所内ではクリスマスには解放されるという噂が広まっていました。ただ、クリスマスが近づいてもいっこうにそのような気配がないため、最後の希望をもっていた大量の人が失望にうちひしがれて亡くなったようです。

自分の未来を信じて、生きる目的を持ち続けることが生き延びるために大切な要素でした。

このひとりひとりの人間にそなわっているかけがえのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということ、生きつづけるということにたいして担っている責任の重さを、そっくりと、まざまざと気づかせる。自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。

「生きることに希望を持てない」という被収容者2人に対して、生きていれば待っているなにかがあるのではと著者が伝えます。

2人にはそれぞれかわいい子供やその人しかできない研究・仕事があり、待っているそれらを意識することにより「まだ死ねない」と気づき、再度希望を持ちます。

極限状態を少しでも生き延びるにあたっては、外部の環境などではなく、意思や未来への希望といった自分のなかの心の持ちようだったんですね。

外的な条件に負けず、最期まで内面的な勝利をつかみにいく

強制収容所に入れられた人間は、その外見だけでなく、内面生活も未熟な段階にひきずり下されたが、ほんのひとにぎりではあるにせよ、内面的に深まる人びともいた。もともと精神的な生活をいとなんでいた感受性の強い人びとが、その感じやすさとはうらはらに、収容所生活という困難な外的状況に苦しみながらも、精神にそれほどダメージを受けないことがままあったのだ。そうした人びとには、おぞましい世界から遠ざかり、精神の自由の国、豊かな内面へと立ちもどる道が開けていた。繊細な収容者のほうが、粗野な人びとよりも収容所生活によく耐えたという逆説は、ここからしか説明できない。

強制収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人びとについて、いくらでも語れるのではないだろうか。そんな人は、たとえほんのひと握りだったにせよ、人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、与えられた環境でいかにふるまうかという、人間として最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあったということを証明するには充分だ。

人間はひとりひとり、このような状況にあってなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、何らかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。

最後の瞬間までだれも奪うことのできない人間の精神的自由は、彼が最期の息をひきとるまで、その生を意味深いものにした。~中略~ 強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも、意味があるのだ。

そこに唯一残された、生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようががんじがらめに制限されるなかでどのような覚悟をするかという、まさにその一点にかかっていた。

強制収容所での生活においても、少数だったようですが尊厳を失わない人がいました。自分を保ち、思いやりのある姿勢を持ったままの人です。本書を読む限り、著者も尊厳を保ち続けた人だったと思います。

ここでも環境などの外部要因ではなく、心の持ち方、生き方のようなものが最後の自分自身の態度を決めることが記載されています。

どんな環境においても人間らしくふるまうというのは、収容者だけではなく、監視する側(被収容者)にも当てはまったようです。

実際の収容所においても、監視者や監督などの管理する側の人間にも「人間らしさ」がある人とない人がいたようです。監視者のなかにも立場を利用して、むちゃくちゃしてた人とそうでない人で別れていたようです。

どんな環境に置かれたとしても、外部の環境にせいにするのではなく、自分の心の持ち方によって少しでも周りや自分を変えることができることが示されています。

収容所のような極限の場所でも最後まで希望をもって生きていた方がいました。現代に生きる私たちもこのような環境ではないにしろ、つらいと感じたときは希望をもって生きていきたいですね。

まとめ

今回は「夜と霧」について、紹介しました。

絶望を感じた時、どのように希望をもつのか大切なヒントがつまっている本だと思います。

ぜひ本書を手にとって一通り読んでみてください。

NHK「100分de名著」のテキスト版もあります。

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この記事を書いた人

kabosuです。
現在、データアナリストとして働いています。
1児のパパとしても奮闘中です。
日々の生活を過ごす中で、私なりに思うところを少しずつ書いていこうと思っています。どうぞよろしくお願いします。

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